「老い」を知る

宮子あずさ著「看護婦が見つめた人間が死ぬということ」を読んで、人間はみないずれ老い、不便で苦痛な長い長い「老い」の時期を経て、みな平等に最期を迎えるのだという認識を新たにした。

みなさんの身近に、お年寄りは何人いるだろうか。私たち世代は核家族で都心に暮らすことをメジャーチョイスとしてきた。その代償として、経済的な負担が大きく、子育てが大変なのはもちろんだが、人間が年をとって、病んで、死ぬという「絶好のサンプル」を見逃しているとは考えられないだろうか。

昭和から平成へと時代が移り変わる間、あまりにも目まぐるしく世の中は変貌し、若い世代の価値観と旧時代のそれとのギャップは一昔前とは比較にならない程大きくなって、もはや埋めようがない。それは、実の子とて同じことで、同居するとなれば軋轢は避けられない。

その苦労を承知した上で、やはり親子の同居はした方がいいのではないか、と思う。身近に年寄りがいるということは、人生の集大成を目の当たりにするということ。どのような生活を積み上げると、どのような年寄りになるのか、それを見つめること。

子育てで腱鞘炎になったという話はよくきくが、私の親世代ではそんな人はいなかったらしい。昭和の頃はまだ、重たいものを運んだり、雑巾を絞ったり、という肉体労働を日常的にしていて、幼いうちから手指も鍛えられていたのだろう。アレルギー疾患の人口比率もかなり低い。家電世代に育った人間は生まれながらにして脆弱なのだ。そういう人間が老いていくとどうなるか、我が事ながら戦々恐々としてしまう。

都会の人間は「老い」から遠ざかり、目をそむけている。自分だけは、他人に迷惑がられるような、惨めな老人になるようなことはないと、現実逃避してはいないだろうか。その一方で、老後のためにどうにかお金だけは残そうと必死になっている。しかし「若さはお金では買えない」のだ。元気で幸せな老後が欲しかったら、若い今、できるかぎり心身を高めておくことなのではないか。そんな耳に痛いことを日々、心がけるためにもぜひ、老人と身近に接することをおすすめしたい。

 

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